怒りの音色に隠れるものは…
【M.Y.】
「おはよう」の次は怒号が走る。穏やかな日常はココには存在しない。
特別広い家ではない。むしろ狭い部類に入る古い家だ。
ココには男と女がいる。
過去彼らの間には平穏な日常が流れており、共に世界へ何度も旅行をしていた。二人で行動することが当たり前で、仲が良かったのだ。
それがいつしか変わってきている。ここ数年の話だ。
きっかけは親族の一人に関係する。
その親族(女)は病を患っていた。その治療についての議論がきっかけだ。
彼女と男と女では治療についての意見が三者三様だった。
まず、彼女は自分が病気にかかっていること自体を否定し、男は出来る限り彼女の意志を尊重したいが、病院への入院を進めたい、女は彼女の意志を尊重する前に自分達の負担をなるべく軽くするため、意志を無視して入院させれば良いと。
これについての議論が激しさを増し、さらに彼女の死後について話し合いをするうちに口論がますます発展。男にとって彼女は血のつながった家族、女にとっては義理の姉に過ぎない。
男と女にとって、物事の価値観が大きく変わっている。やはり血のつながりは強い。
この議論は彼女が亡くなるまでの数年間続くこととなる。
この期間男と女の家は修羅場と化している。なんてことない会話ですら声色は怒りに満ちている。
女は言う「相手の行動一々腹が立ってしまう。意味はなくてもイラつく」と。
対する男は気にも留めない。男は頑固だからだ。自分の意見が正しく、その通りにしようとする。だが、そんなに酷い人間ではない。他人には優しい。私には優しいし、まず、他人に対して怒らない。娘に対しても、である。
私は尊敬すら覚えた。あれだけ毎日飽きずに喧嘩し、一日中共に過ごしているにもかかわらず、離婚にまで発展しない。逐一の行動がイラつくわりには家を出たいとか思わないあたり、見えない愛があるのだろう。それが他の人には全く伝わらず、離婚間近の夫婦のようだ・・・。
今はようやく、以前の落ち着きを取り戻し、普通の生活が送られている。ただ、女のほうは他人には伝わらないくらいの愛で男と共にいる。反対に男は女への愛に満ち溢れていて、二人の関係を見ていると可哀想な気持ちになる(男に対して)。
私にとっては長年連れ添った男に対して、「行動一々腹が立った」状況でも、一緒にいて、変わらず過ごせるのは、どういう心境なのか全く理解できない。男からの愛情をうっとおしい顔で受けるこの女の心が理解できないが、それが私の祖母なのだ。
<難波江からのコメント>
この話はよく書けています。一見したところ複雑に見える人間関係をきちんと整理して、情報を必要に応じて小出しにしながら、「祖母」の存在を最後まで取って置く工夫も認められます。
冒頭から、どこの誰の話かわかりにくい形式になっているにも関わらず、それでも何が問題で、なぜそれが問題になるのかは理解できるように書かれています。言い換えれば、この話の登場者たちは、「男」、「女」、「彼女(親族)」というように、すべて記号化されていて、その記号がそれぞれの内面を割り振られ、関係づけられるにつれて物語が進んで行き、それにつれて記号が人間化して行く、というふうに読めます。少しほめすぎでしょうか。
「男」、「女」、「彼女」の関係は、「男にとって彼女は血のつながった家族、女にとっては義理の姉に過ぎない。」という文章でわかるようになっています。他方、「男」と「私」の関係は、「[男は]他人には優しい。私には優しいし、まず、他人に対して怒らない。娘に対しても、である。」という文章から推測できるようになっています。このように、人間関係を描くにしても、世間で通用している呼称(たとえば、夫婦、姉弟、親子、祖父と孫)をラベルのように貼りつけないで、情報量をできるだけ抑えながら、読者にその関係性の内実を読み解かせるように負荷をかけている点、高く評価できます。
重複した言葉を削りこんで、文章を洗練させれば、完成度はもっと上がるでしょう。それから、作者【M.Y.】が人生経験を積めば、あるいは作家としての意識がもう少しあれば、最後の段落はまた違った書き方になったと思われます。単に「どういう心境なのか全く理解できない」、「この女の心が理解できない」で終わると、作者の人間としての「若さ」が実物大でそのまま見えてしまいます。その「若さ」を客観視するだけの目力を養って、ゆとりをもって物語の「私」を描写するとどうなるのか、期待をもたせます。
それにしても、男女の仲、特に夫婦関係は他人にはわからないものです。もしかすれば、本人たちにもよくわかっていないのかもしれません。(苦笑)その事実を想い起こさせるに足る「ウソのような本当の話」の出来でした。
<内田からのコメント>
内田です。う~ん、これはね、ちょっと書き方の方向が違うような気がします。ショートストーリーの骨法は「いきなり現場に巻き込まれる」ということだから。
そのためには書き手は鳥瞰的な視点にとどまっていてはいけない。
いや、鳥瞰的な視点にいること自体はいいんです。でもそうだったら、そこから一気に急降下して、リアルのうちに入り込むという、墜落感(せめて高度差)のようなものが出てこないと。
「おはよう」の次は怒号が走る。という書き出しはいいです(これがいちばんよく書けているフレーズです)。
でも、「おはよう」というのは現実の、ありのままの言葉ですけれど、「怒号」というのは「ありのままの言葉」じゃないですよね。誰かが発語した言葉を「これは『怒号』である」というふうに判断し、カテゴライズする「鳥瞰的視点」から見下ろしていない限り、「怒号」という言葉は出てこない。
「『おはよう』という挨拶に『ばかやろう』という言葉が返ってきた。」というのなら(もちろん、実際に行き交うのはそんな乱暴な言葉じゃないでしょうけど)、「リアル」と「リアル」が拮抗して、そこに「なまの現場」が現出する。でも、これが「怒号」という説明的な漢字熟語になると、そのリアリティは霞んでしまう。
説明的な言葉はできるだけ使わずに、「ほんとうに口にした言葉」に託すということはむずかしいです。でも、ほんとうに「リアルな文章」を書きたいと望むなら、どこかで説明的な言葉と、「天上から見下ろす視点」を抑制する必要があるんです。
がんばってね。