内田樹『街場のメディア論』(光文社新書)

【M.I.】

 TV業界の不正を、新聞は厳しく批判する。「こんなことが許されていいのか」と、声高に。「ふむ、見慣れた光景だ…」と、思ったアナタ。ちょいと待たれよ。TVも新聞も、同じ「メディア」。それなのに、素知らぬ顔して、お互いを叩き合うなんて、歪な構造ではないか。「もはやどこが歪なのか…」と、悩むアナタ。巷に溢れる「メディア批判」を語り尽くす、革新的な「メディア論」を、お届けしたい。

 各メディアは互いの不正を黙認した上で、「知らなかった、なんてヒドイ!」と驚愕し、批判する。真の意図はただ一点。「許されてはならない『こんなこと』に、私は無関係だ」とのメタメッセージである。この姿勢を「メディアの演技的無垢」と著者は形容し、メディア凋落の要因だと建設的な批判を続ける。これは、メディアの“内”で生きる者にとって耳の痛い話だ。なぜ「痛い」のか。答えは著者の身構えにある。

 巷のメディア批判は、聞き手の耳をあっさり通過する。それは話者の刃は“外”へ向けられるからだ。刃先を濡らすは、他人の血。己に責任は微塵もないと、刃を振り回す。当の本人はメディアの“内”で生きているにも、かかわらず。この自覚の欠如が、言葉の重みを削ぎ落す。だが、著者の刃は、違う。メディアの“内”に生きる者だと、強い自覚がある。メディアを無責任に攻撃、手放しに擁護することは本望でない。ただ、メディアの未来を守るには、自分の身を削ってでも、今語らねばならない。この言い得ぬ想いを足場にして、慎重に、痛切に言葉を紡ぐ。刃を、己の血で、濡らしゆくように。

 メディアの内情をメディア“内”の者が語るとき、発した言葉を我が身に引き寄せ、痛みをも引き受ける気概が必要である。読者は、武道家として生きる著者の矜持に、「メディア論」という演武を通して、触れる機会となるだろう。

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