「とうびょうにっき」

(悲しい話から面白く、また悲しく)

【M.I.】

 「ヨウセイやって、よかったわあ。」
思わず、母も私もため息をこぼす。
医者は目を丸くして、私たちを見る。
そしてまた、私たちは、ため息をこぼす。
祖母の耳に聞こえたはずの「ヨウセイ」は、妖精でも幼生でもなく、「陽性」であった。
子宮体癌陽性。
─シーニュの構成要素であるシニフィアンとシニフィエは、常に恣意的に結びつく。……ため息と同時に、ソシュールの言語学理論が頭をよぎる。大学での学びは案外身についているもんだ、と脳の奥で呟いて、医者に対して伏せ目がちに、首を振る。
癌の陽性、という医者からの悲痛な通告も、祖母の耳には「リ」が付け加わって、「良性」と早変わりしたらしい。闘病の気を起させようと身構えた医者の深い面持ちは、祖母のあっけらかんとした声によって、見事崩された。明らかに変な黒ずみのあるレントゲンを前にして、「よかったよかった」と繰り返す祖母。狂気とは一体何なんだ、と今度はフーコーが顔を出す。病気を区分するのは医者の言説。でも、今は、無用の長物。

**

 日常に切り込みを入れられたのは、一月の半ばだった。
「寒い寒い。あー、寒い寒い」と言いながら、トイレに駆け込む祖母を尻目に、私はこたつで足を温めていた。祖母は用を足すとき、扉を開けたままにする。すでに半世紀以上生きた人間に、今更何を言っても無駄だろうと、ずいぶん前から注意はしなくなった。くだらないテレビに意識を向けたまま、二個目のみかんに手をつける。祖母は、みかんよりも、まんじゅうが好きだった。食べかけのまんじゅうが、こちらを向く。

 「血ぃ、混じってたわ。なんでやろか。」
ごぼごぼと水が流れる音に混ざりあう、祖母の声。みかんを一房口に運ぼうとする母の手は凍り、眉を顰めて、私の目をみた。「なんでやろか」と呟いて、あんこが剥き出しになったまんじゅうを、口に放り込む。また、「なんでやろか」と呟いた。
翌朝、近くの病院へ向かった。街医者も眉を顰め、そこから転々と、病院を渡り歩くことになった。
終着駅の大病院。祖母は、もう、末期だった。

**

 「余命一年、というところですが、抗がん剤の治療を……」
「最近では、新たな治療薬も開発され……」
「痛みを軽減させるには……」
 別室に移された母と私に襲いかかる最新の医療知識。ひとつひとつを咀嚼するには時間を要する。だが、あの祖母が、子宮体癌の末期で、余命は一年で。祖母には、事細かに伝えない方がいい。母と私に共通していた、この直感。これが、唯一確かな点だった。

 癌であるが、治療すればよくなる。それだけを簡潔に伝え、祖母の見知らぬところで、祖母のカラダは、闘病生活を、スタートした。

 体操、旅行、食べることが好きな祖母に、抗がん剤は容赦なく襲いかかる。
手足は不自由になり、一人では移動もできず、食べては吐き、飲んでは吐き。それでも、祖母は、アイスとアナゴとまんじゅうを好んで食べた。毛は抜け落ち、頬はこけ、目は虚ろになりながら、食べ物だけは欲し続けた。
食べなければ死ぬ。
生まれた時代をたがえた者には理解できない強い強迫観念を、私は尊重し続けた。
金魚が餌を欲するように祖母は口をぽかり、と開け、まだかまだか、と私の手元を、くりくりとした目で追っていた。

 「おばあちゃん、心臓、止まったんやって。」
電話を切ってすぐ、母は今日の天気を知らせるような口調で言うと、最後の日課を遂行するために、二人でホスピスへ向かった。

 病室では作りものの音楽が流れている。昨日着がえさせたばかりのピンクのパジャマに身を包んだ祖母は、ぽかり、と口を開けて、目を瞑っていた。
父も、兄も、やってきて、病室のソファに腰をおろし、次の段取りを考えているようだった。
「全く苦しんだ様子がなくて…」という看護師の言葉に、そうですかそうですか、と無機質になりすぎない程度に返事をし、横たわる祖母を見つめ続けた。

 何かが、何かが、変だ。

 水で清められ、お気に入りだった服を着せられたあと、死に化粧を施されていく。みちがえるように綺麗になった祖母の姿に、「きれいですね」と互いに声を掛け合い、確かに綺麗だなあ、と思った、そのときだった。
ぽかりと開いた口の中。
─あれは、なんだ。

 無をも飲み込む、黒い穴。
─ああ、そうだ。

 浮かぶ、朱。

 食欲だけは衰えなかった祖母は、死ぬ直前に、白く膿んだ口内炎を作った。
「炎症箇所に、貼るだけ簡単」と謳う優れものを、薬局で手に入れ、ちょうど昨日、貼ったばかりだった。
濃い朱色をした口内炎のパッチ。「変」を作り出す正体は、そいつだった。
血の気の失せた歯茎に、そいつは、浮かぶ。炎症箇所を治そうと、成分を出し続けていた。
もう、治すカラダは、死んでいるのに。

 今の祖母は、とても美しい。
綺麗な化粧、お気に入りの洋服、穏やかな表情。
このままあの世へ行けば、早くに死んだ祖父も、大喜びだろう。
無事に再会し、互いが歯を見せ合って笑うだろう。
歯茎に浮かぶ朱色。感動の再会は、ぶち壊し。「お前は最後まで食い意地を張って…」と、祖父は落胆。
いや、もしかすると、久々の再会に、祖父は笑い死ぬかもしれない。
新たなあの世へ召還だ。そうすれば、あの世はきっと、大混乱だ。

 すすり泣く声を意識の隣に置き、祖母の口内に想いを馳せた。
 最後まで、あほな祖母だった。
悲しませない、祖母だった。

 私は、今、笑い泣きをしている。
そう言い聞かせ、目をこすった。

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