「めがね」
【M.S.】
「世界が変わります」。
今日、僕はこの一言にめがねを買わされました。
なんという胡散臭い宣伝文句。はじめは僕もそう思った。そもそも「世界」って偉そうになんだ、自分がこの目で見ている世界が「世界」の全てじゃないか、とも思った。だけどそんな僕も胡散臭い宣伝文句に財布の紐がゆるんだわけだ。悔しいが「めがね」は僕の世界を変えた。
自分の「世界」が崩壊していることに気づいたのはつい昨日。
「ねえねえ、あの広告コピーおもしろいね」。
隣で笑う彼をよそに、僕が見ている世界の中では、隣の奴が指差す広告は、ただのぼやけた四角でしかなかったのだ。ましてやコピーなんて何のこと状態。「ああ、目悪いの?」でその会話は終わってしまって、何なんだ、教えてくれよ、と世界を理解出来なかったような気分になって一人、悔しい思いをした。
「いらっしゃいませ」。
僕はその悔しさをバネにめがね屋に行くという屈辱を経験。何かを通してしか世界を見れないなんてダサい、嫌だ、という思いを抱きながら店内を彷徨いてたら、「とりあえず掛けてみてください」と話しかけられた。騙されたと思って、と渋々めがねを装着。
・・・なんじゃこりゃ。
その瞬間、悔しくも世界は一変。「とりあえず」と勧めてきた彼はこんなにヒゲの剃り残しがあったのか、とか、今日履いてきた靴はこんなに汚かったのか、とか、知らなかった世界が急に目に飛び込んできた。それと同時に、自分が見ていた世界というのはだいぶ前から崩壊していたのかと落胆。めがねによって息を吹き返したような感覚が僕を包んだ。
「ね? 世界が変わったでしょ?」
そう店員に後押しされて、僕は「めがね」を買ってしまった。
目が悪くなるきっかけというのは知らぬ間に訪れる。知らぬ間にこっそりと訪れて、ゆっくりと時間をかけて僕たちから視力を奪っていく。しかし、世界が縮まっていっている感覚というのは意外にもわからないものだ。でもそれは何かしらのタイミングで気づかされることになるのも事実で、今や世は「めがね」や「コンタクト」を通して世界を見ている人だらけ。そんなに世界の正解が見たいか。そんなに自分の眼が繰り広げる世界が気に食わぬか。そもそもその世界が「正解」だなんて誰が言ったのか。
「世界が変わります」。
今日、僕はこの一言にめがねを買わされました。
結局僕も世界に「正解」を求めている、というわけだ。もしかすると、正解、というより、知りたいのは単純にみんなが見ている世界かもしれない。みんなが見えているものくらい見えときたいという思い。見たいのはあくまでみんなが見えている、正解っぽい「世界」。
「めがね」は、多数決社会を生き抜く僕らのオアシスだ。恥ずかしい。