総評(ショートストーリー)/ 後期(3回生)
難波江 和英
今回も、これまでと同様、ちょっとヒネリのある物語を書いてもらうことにしました。笑えるのに悲しい。悲しいのに笑える。そういうヒネリさえあれば、どんな物語でも、どんな長さでもかまいません。書評のときのようにテキストもありませんので、みなさん、伸び伸びして、書評よりはるかに上手です。こちらもチェックする立場を忘れて、楽しく読ませてもらいました。
物語の内容は、以前なら、お祖母さんネタやお祖父さんネタ、お母さんネタやお父さんネタも割とあったのですが、今回はほとんどなくなりました。自分の現実をそのままネタにした物語も減った反面、いままでよりフィクションらしさを感じさせる作品が増えました。これらの原因はいまのところよくわかりませんが、個人の資質とは別に、時代の潮流になんらかの変化が起こっているのかもしれません。他方、「いま、ここ」を離れて、想像力で行けるところまで行くという物語は、これまでと変わらず、皆無と言ってよいほどでした。ないものねだりとして言えば、歴史物、時代物、推理小説などの枠組みを利用した書きものも読んでみたかったところです。それでは、それぞれの作品について、少しずつコメントしておきます。
【M.A.】さんの「取り替える」は、現実vs.非現実、リアルvs.アンリアル、日常vs.非日常という二項対立の図式をすっとすり抜けていくシュールでシームレスな感覚に好感をもちました。自分という存在を含め、すべてのものが交換可能なものとして存在しているという物語を書く背景には、いったいどういう欲望が時代の要請としてあるのか、それを知りたくなりました。デジタルワールドの住人にとって「自然」と思われる世界への欲望? それとも、変えられない現実の閉塞感への裏返しとして生まれた、リセット可能な世界への欲望?・・・
【M.S.】さんの「めがね」も、状況設定はもっと現実的ですが、少し大げさに言えば、世界の崩壊と世界の変革をテーマにしています。肉眼で見ている世界がぼやけており、めがねをかけて見える世界が鮮明であるというギャップ。いまや人は、ありのままの世界ではなく、みんなが見ているものを見ようとしている、という違和感。それにも関わらず、そういう世界観に自分自身も抗いながら巻きこまれていく不条理。なかなか目のつけどころがうまいと思いました。物語の結文にあたる「恥ずかしい」は不要でしょうか。
【Y.K.】さんの「傘」(タイトルがなかったので仮題)は、授業で最初に読んだときより印象に残りました。傘の視点から描かれた世界には新鮮さがあり、ぐっと来る文章も散見されました。たとえば、冒頭の「人を雨・日差しから守る事が、自分の使命だった」。「工場は京都に位置しているだけに和柄な服が多かった」、「自分は雨上がりが嫌いだった。でも最も嫌いなのは虹だった」、「それよりも、自分が一瞬でも必要とされている事が嬉しかった」。最後をハッピーエンドにするのは改悪かもしれませんが、考えられないわけではありません。「そのとき、パラパラと雨が降り始めた。トラックのお兄さんの手が伸びてきた。」
【T.E.】さんの「不器用女子のつぶやき」は、「根暗で無愛想で変な意地張ってて、自分に自身がない」女子が、同じサークルの他の女子に屈折した感情を抱きながらも、その果てに束の間、雲の切れ間に光を見るように、清々しい気分に浸るところに「ひねり」を入れようとした物語として読みました。登場人物や状況設定が、やや等身大に近すぎるのでは?という印象はありましたが、物語の流れを最後まで支えようとした努力や、ツイッターの文章等を利用しながら、人間相互の感情のやりとりを表現しようとした工夫は評価したいと思います。
【O.S.】さんの「雪解けを待つ」は、フィクションを書き慣れている人の物語と思えたほど、筆達者でした。(実際に、【O.S.】さんは高校時代にもフィクションを書いていたようです。)冒頭の「閑散とした様子のこの店には、名前がなかった」という一文からして、読者を引きつけます。「デイビッドが切り取ったその瞬間は尊く、可憐だった」は、やや美文調すぎるかもしれませんが、主人公の切なさをよく伝えています。事物のディーテイルも、インテリアショップのグッズからデイビットのマフラー(アプリコットオレンジ)に至るまで、さりげなく、繊細に描かれています。
極めつけは、タイトルの「雪解けを待つ」の意味深ぶり。雪景色の季節とヨハンナの心情の重ね合わせ。それとコントラストを成すように、淡々と進んで行く日常のリズムが、通奏低音として、なんとも心地よく感じられました。
【Y.N.】さんの「細胞」は、人間から見た視点と細胞から見た視点を反転させた形で併置したところに「ひねり」があり、その努力を評価します。ただ、この工夫自体はやや単純ですし、物語の内容も、もう少し深さがほしかったところです。他方、主人公の「私」が娘をもつ父親であるとわかる流れはよく書けていますし、細胞にも感情があるという発想を細胞自身の視点から裏づけるという物語の展開も、おもしろく読みました。さらに、細胞の視点から展開される部分がすべて会話によって成立しているところも、前半とのコントラストを際立たせて、創意を感じました。
【M.E.】さんの「訪問客」は、比較的よくあるペットネタですが、「ひねり」としてコワサもあって、なかなかよく書けていました。(個人の好みとして言えば、「今、家にいる子たち」も、この先どうなるかわからないという落ちになっていれば、もっとコワかったと思います。)ペットの命名など、実話を下敷きにしているのかもしれませんが、ちょっとほほえましくなります。しかし、しばらくすると、物語は明るいトーンで語られながらも、ほほえんでばかりもいられない流れになっていきます。車に轢かれたシーズー犬のふくちゃん、迷子で衰弱したポメラニアン犬のいなり、いつのまにか野良猫になって行方不明になった猫のみー、小鳥を丸呑みにしてとぐろを巻いている蛇、「ぺたーんて水の中で死んでいた」あひる。ほとんどブラックユーモアの世界です。
【T.M.】さんの「不思議な声」は、今回の修了作品では珍しく「お祖父さんネタ」。どこからともなく聞こえてくる声の主を探すという話ですが、ネタバレ気味で、内容的にもやや物足りません。ただ、物語がかなり進行するまで「夢」だとわからないようにした努力は評価できます。声の主がわかったあとの主人公の晴々とした気分も、「雲一つない最高の天気」に重ね合わされて(この比喩自体は常套手段ですが)、その鮮度を高めています。他方、最後の「また、夢に出てきてくれるかなぁ」、「また、会いたいなあ」は、その前の「きっと今日も頑張れる」という主人公のちょっとした決意を考えると、省略したほうがよいと思います。
【I.R.】さんの「数分間のタイムとラベル」は、タイトルに示されているとおり、タイムマシーンに乗った女性の話です。しかも、ワープした10年後の世界がその女性の現在に当たり、10年後の家族を見ている私(タイムトラベルした私)と目が合った私(現在の私)という状況設定に「ひねり」があります。それだけでもなかなかの力技と言えますが、タイムトラベルした私には幸せそうに見えた10年後の家族にも「薄い靄のようなもの」が漂っていて、それがいつから起こったのか、現在の私にもわからないという点には、さらにぞくっとしたものを感じさせられました。その意味で、この物語は、人間関係や家族関係に伴う不安、幸福の翳りという普遍のテーマを取り扱って、単なるタイムトラベルの域を超えているところがあります。
【K.K.】さんの「変わらないもの」は、おそらく実話に即しているのでしょうが、幼稚園のときの出来事が記憶の層となって、物語に愛らしさと共に奥行きを与えています。主人公は、自ら壊してしまった階段が10年を経てもそのまま使われているのを見て、「変わらないもの」の大切さを感じ取ります。その「ひねり」には見るべきものがありますが、同時に、それを伝える文章にやや硬さ(論理)の目立つものがあり、物語というよりレポートを読んでいる気分になるときがあります。特に、「人の不便さにも、『変わらなさ』を残してもよいのではないだろうか」という一文は、削除したほうがよいかもしれません。他の文章(たとえば、「ぎりぎりで乗れるはずだった電車は、さらっとわたしを置いて行ってしまった」や「これは月に通じる階段よ」)には魅力に溢れたものもあるだけに、少し惜しまれます。
【T.K.】さんの「理想的な幸せ、手に入れました。」は、「ひねり」の具合がよくわからないところがありました。この物語が伝えようとしているのは、幸せそうに見える恋人たちにも微妙にズレがあるということなのか、彼らは微妙にズレを抱えながらも幸せであるということなのか、あるいはまた、そのどちらでもあるのか。つまり、タイトルの意味は? 他方、強く印象に残ったという点では、「男の子には分かんない」ものとして出てくる「猫の死骸」と「赤い椿の花」が秀逸でした。これらの描写には、まるでそこだけ色が濃くなった絵を見たときのようなインパクトを感じました。それだけに、この「猫」と「椿」をもう少し物語全体の効果につなげるように書けていれば、と思いもしました。
【O.S.】さんの「大切なもの」(原題は「大いに切るもの」だが、意味不明のため改題)は、「大切にする」とはどういうことなのか、その真意に十数年ぶりに気づく「ぼく」の話です。「大切にする」とは、大切なものを失うときに後悔しないこと、そのためには、大切にしたいという思いを言葉にすること。【O.S.】さんは、この気づきに「ひねり」を込めたかったのでしょう。その媒体として、「僕」が幼稚園のころに読んだ絵本を使った点は、おもしろいと思いました。同じ本を年月が経ってから再読すると、最初に読んだときには思いもしなかったメッセージに気づくということがあります。「ぼく」は、そうした経験を介して、絵本の中の「男の子」と重なり、絵本の内容を現実の知恵として生きていくことになります。そこをもう少し巧みに伝えられれば、この物語に日常の神話としての相が浮かんだかもしれません。
【H.C.】さんの「ステキな勘違い」は、「私」と「僕」の視点を照らし合わせるように設定することで、同一の状況から、両者の思惑のズレをうまく浮かび上がることに成功しています。それを可能にした要素として、「カラス」の登場、「キャラメルコーンというお菓子の袋」という設定を特筆しておきたいと思います。文章表現としては、「僕の中でのゲーム」や「目が合ったら最高級のスマイル。寝そうになってもスマイルスマイル」に目が留まりました。これらの文章は、子どもならではの邪悪さ、あるいは無邪気に見える悪意を感じさせて、「私」の無防備な善意を際立たせる効果を上げています。そのコントラストの妙を評価しました。