「細胞」

【Y.N.】

 何日たっただろうか。私がこの実験を始めて、もうずいぶんになる。いや、これを実験と呼んでいいのか、パソコンに送られてくる指示に従って操作しているだけだ。実験と呼ぶより作業と呼んだほうが正しいかもしれない。何の実験かもよくわからない。たしか、流行病の薬をつくるための実験だった気がする。そのために私は、毎日毎日細胞を切ったり着けたりしている。

 そういえばこの前、娘に仕事のことを聞かれた。小学校の宿題らしい。自分の仕事を子供に説明するのは難しいことだった。実験室の写真や実験道具の写真を見せてやると、ずいぶん喜んだ。これはどうやって使うのと何回も聞かれた。家に顕微鏡があったので細胞も見せてやった。初めて見る細胞に興奮してこれは何?と何度も聞かれた。ああ、そういえば、顕微鏡を見ているとき娘がおかしなことを言っていたな。
「ねえ、お父さん、この細胞たちは、私たちに見られていること、知っているのかな? こっそり見てるみたいで、なんか、悪いね。」

 細胞を感情のあるものだと考えたことがなかったので、なんだか、不思議な気持ちになった。もし娘が言うように細胞に感情があるのなら、私が行っているこの実験の細胞たちはどんな気持ちなのだろうか。切って小さな部屋に入れられて、同じ働きをするように薬などを与えられて、全く想像できない。
あぁ、早く家に帰りたい。この実験はいつになれば終わりが来るのか。


「おい、お前何を見ているんだ?」
「ん? これか? これは地球という生き物の、人間という細胞だよ。ほらこれをのぞいてみろ。見えるか。そう、それだ。そいつらは普段集合体になってるんだがな、こうやって一個だけ取り出して、小さなこの穴に入れて隔離するんだ。そして、その中に人間に指示を出すこの試薬を入れる。いま、その様子を観察しているところだ。」
「ほう、それが何の役に立つんだい?」
「人間は地球を殺す可能性のある細胞だからな、こいつのことは、よく調べておかなければならないのさ。いざというときにこちらで操作できるようにしておけば、地球以外の生物に似たようなものが出てきても、対応できるかもしれないだろ。薬のようなものを作れるわけさ。」
「なるほどね。ちなみに、こいつらは私たちと同じように感情なんてものはあるのかい?」
「そんなこと考えたことなかったな。ないんじゃないかな。そういわれるとなんだか不思議な気持ちになるよ。全く想像できない。さて、次の指示はなんだったかな。あぁ早く家に帰りたい。この実験はいつになれば終わりが来るのか。」

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