「雪解けを待つ」

【O.S.】

 閑散とした様子のこの店には、名前がなかった。というより、名の書かれた看板そのものが置かれていない、といった方が正しいだろう。だから、近隣に住む者達は皆、各々好きなようにその名を呼んだ。

 指先悴む、冬の朝。その日もヨハンナはひどく退屈していた。元々建てた場所が場所ということもあり、この街外れの小さなインテリアショップに一週間に訪れる人の数は、多くて四、五人がよいところだ。元来物静かな性格をしている彼女にとって、それはむしろ好都合なことだった。しかし、その状態が二年も続くとは、さすがに予想していなかったわけで。今日も今日とて、憂いを帯びた表情をたたえ、店の奥に座っているのである。
そんな彼女の日常は、数ヶ月に一度の割合で、不意に崩される。

「で、新しく入ったのはどれだい?」
「……これとそれと、あれよ」
そう言ってヨハンナは、近くに置いてあるものを適当に指で示した。アンティークのキャビネットと、海の向こうから取り寄せた真新しいカーテン、そして数少ない常連のマダム・マティルダより譲り受けたドレッサー。それは確か、前に来た時にもあっただろう? 雑に対応しないでくれよ。そう言って大げさに眉をしかめてみせた、その男の名はデイビッドといった。
彼はフリーのカメラマンをしている。その人好きのする顔立ちと懐っこさを生かし手に入れた豊富な人脈を駆使して、各地を転々としながら、時折自身の出身地であるこの街へと舞い戻って来るのだ。その度に、この店にも顔を出す。街の隅にひっそりと佇む、どこか寂しい空間。何とはなしに気にかけてくれていることには、ヨハンナも気がついている。

「あ。この小さなオーバルテーブル、いいね」
「お気に召した?」
「撮影の時に、セットとして使えそうだ」
デイビッドは気に入ったインテリアをよく購入していく。あまり帰ることのないアパートメント用、撮影用、ギフト用。サイズも価格も大小高低さまざまだ。売れるだろうか、これはどのくらいの値段が妥当だろうか、などとあれこれ考えを巡らせていたヨハンナは、目の前で一枚の写真を振られ、我に返った。
「これ、この前撮ったんだけどさ」
そこに写っていたのは、大きな窓と夜景と、炎瞬くキャンドル。ここで買ったキャンドルだと嬉しそうに話すデイビッドを横目に、ヨハンナはじっとその写真に魅入る。
彼は以前、売れ残っていたキャンドルを数本、この店で買っていった。お飾り程度に置かれていた、処分待ちの品だ。よくあるキャンドルと比較しても二回り程サイズが大きく、何とも表現し難い歪な形をしている。だがそこが、ヨハンナは嫌いではなかった。
「綺麗」
本音が、ぽつりとこぼれた。遠い遠い空の端をゆっくりと散歩しているような、そんな感覚をこの時ヨハンナは味わった。これまでに目にしたどんな素晴らしい景色よりも、美しい。何故、どうしてなの。悔しいわ。しかし、そういったことさえ、もうどうでもよくなってしまうぐらいに、デイビッドが切り取ったその瞬間は尊く、可憐だった。
「刹那の奇跡、なんて。だからやめられないんだ。写真撮るの」
「……ごい」
「ん?」
「すごい、と思う」
「はは、この写真あげるよ!」
「私に?」
「その為に焼いて持って来たんだ。これを撮ることが出来たのも、いかしたキャンドルを売ってくれた君のおかげだからね」
ありがとう。そう言ってヨハンナは珍しくも破顔した。それからデイブ、と続けようとして、理由もわからず目頭が熱くなり、口をつぐむ。

 そうして間もなく、アプリコットオレンジのマフラーを揺らしながら、デイビッドは店を出て行った。からん、と鳴るベルの音を聞きながら、ヨハンナはテーブルを売り損ねたことに気がつく。でも、まあよい。今夜はこの写真を枕の下に入れて眠ろう。きっと、素敵な夢がみられるに違いない。そう、彼女は一人小さく微笑んだ。
外にはいつの間にか、一面の雪景色が広がっている。

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